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【売約済】掛軸 超大幅 歴史画 新納忠元山田城攻撃図(HP1038)

  • 作家-
  • 時代-
  • 全体縦209.5cm×横144.5cm
  • 内寸縦84cm×横127.5cm
  • 本紙絹本
  • 状態時代を考慮して、状態は標準的です。
    シミ、折れ、ヨレ、浮き、少しイタミがあります。
    片方の軸先が破損しています。
  • 付属品箱・付属紙有り
  • 価格売約済

【新納忠元山田城攻撃図】
慶長4年の庄内の乱の際、島津豊久・村尾重候らと山田城を攻略した。塵取りに乗って指揮をとり,見事落城させた。庄内の乱は、慶長4年に日向国庄内(現在の宮崎県都城市とその周辺)で起きた、島津氏とその重臣である伊集院氏との争乱である。この乱は、島津氏家中最大の内乱である。最終的には徳川家康の仲介により解決に至ったものである。また、慶長の役直後、関ヶ原の戦い直前の大乱であり、島津氏が関ヶ原の戦いに大軍を送れなかった原因になったともいわれている。

【新納忠元】1526-1610
戦国-江戸時代前期の武士。祐久の子。幼名安万丸。次郎四郎。刑部大輔,武蔵守。入道して拙斎,為舟。島津氏一族新納氏の支流の出で島津氏に仕え,天文7(1538)年以来貴久,義久,義弘,家久の4代に仕える。永禄5(1562)年横川城(鹿児島県横川町)攻め,同11年馬越城(同菱刈町)攻めに戦功を上げ,「義久の四天王」「鬼武蔵」などの武名を称された。以後連年のように従軍し,天正13(1585)年から同15年にかけて筑紫地方や豊後(大分県)に転戦したが,豊臣秀吉の征討にあい大口城(同大口市)に拠って抵抗,義久の勧めでようやく下り剃髪した。降伏の態度は微塵の卑屈なく秀吉を感服させたといい,家中への遺訓『二才咄格式定目』は長く薩摩武士の規範とされた。

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