疫病との闘いの歴史 その② 【ちょうど100年前の脅威】

大卍犬太です。
 
新型コロナウイルスの感染拡大を受けて発令された緊急事態宣言も、昨日39県で解除。大阪では、独自基準「大阪モデル」の達成を受け、休業要請の段階的解除が決まりました。通天閣と太陽の塔。大阪のランドマークが緑色に照らされ、少しホッとした気分になりましたね。
 
さて、画像もまた、大阪のランドマークと言える、中之島にある大阪市中央公会堂です。
 
突然ですが、問題です。
この中央公会堂と “疫病蔓延” に関連があるとしたら、それは何でしょう?
中央公会堂
答え・・・中央公会堂の設計者である辰野金吾は、およそ100年前に流行した
     通称 「スペイン風邪」に罹患して亡くなった。
 
第一次世界大戦が終盤に差し掛かっていた1918年から1920年にかけて、一説によると、当時の世界人口の3分の1にあたる約5億人が感染、1億人が死亡した(第一次・第二次世界大戦の死者の合計よりも多い)とも言われるインフルエンザの大流行。
 
発生源はアメリカとされており、その第一次世界大戦への参戦により、アメリカ軍兵士がヨーロッパに渡ることで北半球を中心に広がりました。参戦していた国々では、士気の維持のために情報統制が敷かれ、被害報告が歪曲されていましたが、中立国だったスペインは感染の情報をより正確に発信したため、被害はスペインが最大かのような印象を与え「スペイン風邪」と呼ばれるようになりました。
 
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これに感染し命を落とした著名人には、日本人では、東京駅や日本銀行本店、大阪市中央公会堂などを設計し、日本近代建築の父と呼ばれた辰野金吾や、日本の近代演劇に貢献した劇作家の島村抱月、高村光太郎のアトリエにも出入りし天才画家と謳われながらも22歳でその生涯を終えた村上槐多(かいた)などがいます。
 
海外では、ドイツの政治学者マックス・ウェーバーや、世紀末ウィーンを代表する画家グスタフ・クリムト、そしてクリムトもその才能を買い支援を惜しまなかったとされながら、28歳でこの世を去った画家のエゴン・シーレなどです。
 
電子顕微鏡が開発され、ウィルスの存在が見えるようになったのは1935年になってから。スペイン風邪との対峙はまさに見えない敵との戦いで、対策としては患者の隔離や行動制限、個人衛生の徹底などしかありませんでした。日本人が外でマスクを着用するようになったのは、このスペイン風邪の流行の際に日本政府によって推奨されたことが遠因としてあるのだそうです。
 
スペイン風邪は、暖かくなると流行が一旦収まるものの、冬になると再発。第一波〜第三波まで、およそ3年の長きに渡る闘いでした。
 
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新型コロナウイルスの感染者が特に多かった地域でも、新規感染者数は減少傾向にあり、その一旦の収束も見えてきていますね。元のような日常の復活を期待したいところですが、再発を繰り返したこの過去の経験からも、ウイルスとの共存と長期戦は免れないのかもしれません。
 
決して甘くみることなく、今後も一人一人がうつらない・うつさないための行動と対策をしっかりととって、100年に1度のパンデミックを乗り越えましょう。
 
大卍犬太でした。