「秋の七草」のお話

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「秋の七草」のお話

皆さま。こんにちは。
担当C・Kです。

 

蒸し暑かった夏がようやく過ぎ去ろうとしています。秋がやってきていますね。
今回は「秋の七草」についてお話ししようと思います。

 

以前、七草粥のお話をしたとき、七草粥に使う具材は「春の七草」だと述べました。
実は七草があるのは春だけではありません。秋にも七草は存在するのです!

 

「春の七草」は、正月料理に疲れた胃腸を休め、冬に不足しがちな青菜を補うための七草粥を作るために食用の植物が選ばれています。しかし、「秋の七草」は秋の野に咲く花です。生薬の薬効を持っているものもありますが、食べるためではなく花を見て秋を楽しむための花々で、万葉集の歌人 山上憶良が詠んだ二首の歌から来ています。

 

〇『秋の野に 咲きたる花を 指折りかき数ふれば 七種の花』 
(山上憶良 万葉集  一五三七 巻八)
〇『萩の花 尾花 葛花 瞿麦(なでしこ)の花 女郎花 また藤袴 朝貌(あさがお)の花』
(山上憶良 万葉集  一五三八 巻八)
※「朝貌の花」は、諸説ありますが、「桔梗」を指すのが有力な説です。

 

萩(はぎ)
秋に咲く草という意味で、お彼岸の時に食べる「おはぎ」の由来です。

萩

Wikipediaより)

 

桔梗(ききょう)
根が結(桔)実し、硬(梗)いことに由来する。木偏をとると「吉更(さらにきち)」になるため、縁起物としても好まれました。

桔梗

Wikipediaより)

 

葛(くず)
奈良県吉野付近の古代の地名「国栖(くず)」に由来します。有名な漢方薬「葛根」は葛の根を乾燥させたものです。

葛

Wikipediaより)

 

藤袴(ふじばかま)
花弁が藤色の袴に似ていることから名がつけられました。香りが強く、公家の人々は湯に入れたり、衣服や髪につけていたそうです。

藤袴

Wikipediaより)

 

女郎花(おみなえし)
女性が食べていた黄色い粟飯「女飯(おみなめし)」と花が似ていることから、「オミナメシ」→「オミナエシ」と呼ぶようになったそうです。ちなみに、男性は白いもち米の飯「男飯(おとこめし)」を食べており、白い花だと「男郎花(おとこえし)」と呼ぶそうです。

女郎花

Wikipediaより)

 

尾花(おばな)
ススキの事です。花穂が馬の尾に似ていることが由来です。

尾花

Wikipediaより)

 

撫子(なでしこ)
花が小さく、色も愛すべきところから、愛児のように撫でいつくしむの意味とされています。

撫子

Wikipediaより)

 
これらの花々は昔から絵師たちによく描かれており、掛軸にもたびたび登場します!
弊社の商品にも良く描かれていますよ。
HP513

(小川翠村 萩花群鶉図「露光」(HP513) 一部)

 
HP497

(大出東皐 秋草蝶猫図(HP497) 一部)

 

このように、昔から日本人はその季節で草花を愛で、鑑賞してきました。昨今の異常気象で年々短く感じる秋ではありますが、この「秋の七草」から秋を感じて頂ければ幸いです。
 
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

遊郭探訪記〜江戸幕府公認の色街・大阪新町遊郭跡を歩く〜

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遊郭探訪記〜江戸幕府公認の色街・大阪新町遊郭跡を歩く〜

皆さん、初めまして。

今回よりブログ初参戦のスタッフSです。

 
記念すべき第1回目は、大阪を代表する色街・新町遊郭 について。
時は江戸時代。現在の大阪市西区新町1丁目〜2丁目の辺りに巨大な遊郭が存在しました。
 
マップ
このあたりですね。東に阪神高速、南に長堀通が通ります。
実は、新町遊郭の跡地は、弊社の所在地である南船場から目と鼻の先にあるエリアなんです。
 
それではさっそく探索にいってみましょう〜〜〜
 
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阪神高速高架下
弊社から西へ1分程歩くと阪神高速の高架下に行き着きます。
 
かつてこの場所には川が流れており、そこに 新町橋 という名の橋が架かっていました。
この橋を渡り終えた所に大門(おおもん)と呼ばれる門があり、大門をくぐるとその先にはいわゆる色街が広がっていました。
 
この色街こそが江戸時代、日本三大遊郭の一つ であった新町遊郭です(あとの二つは江戸の吉原、京都の島原)。1627年(寛永4年)、もともとは各地に点在していた遊女屋を一箇所に集めて新しい町を作ったのがこの場所の始まりだそうです。
 
新町遊郭は四方を塀で囲われており、橋のたもとの大門には番所があったようで、人々の出入りは比較的厳しく統制されていました。つまり、この場所に足を踏み入れる為には橋を越え、門をくぐり、番所を通り抜けなければいけない。
 
なかなか簡単には辿り着けないですよね?これが新町遊郭の“非日常感・別世界感”をより一層高めていたのではないかと想像します。
 
新町橋石碑
現在、新町橋の架かっていた場所には石碑が建てられています。
 
山口草平・大阪新町橋図

「大阪新町橋図」山口草平

 
弊社でも過去に、新町橋を描いた作品のお取り扱いをしています。
 
作者は山口草平、大正-昭和期の日本画家です。大阪堀江の元芸妓で画家であった大石順教尼と、一時期結婚していました。
 
摂津名所図会・順慶町井戸辻夜店

『摂津名所図会』「順慶町井戸辻夜店」

 
当時この新町橋は、道頓堀の繁華街など市内側と遊郭を繋ぐ唯一の通路でした。
そのため橋の上には夜店が並び、それは橋の東側の 順慶町 まで続くほど大きな賑わいをみせていたとか。
 
浪花名所図会・順慶町夜見世之図

『浪花名所図会』「順慶町夜見世之図」初代歌川広重/画

出典:国立国会図書館デジタルコレクション

 
歌川広重の浪花名所図会にもこの順慶町の夜市の様子が描かれています。
 
こうやって見ると、色んな物が売られているのが分かってめちゃくちゃ面白いですね。
桶屋に魚屋(干物屋?)に占い、奥に見えるのは女性用の化粧品道具屋でしょうか…?
 
順慶町
こちらは順慶町側の現在の様子。弊社の店舗の場所を●で示してみました。
奥へ進むと御堂筋、そして心斎橋筋商店街に突き当ります。
 
澪標・大阪新町細見之図

『澪標』「大阪新町細見之図」吟古市人/編

出典:大阪市立図書館デジタルアーカイブ

 
さあ、いよいよ遊郭の中へ突入しましょう!
 
この場所から門をくぐって別世界へと入っていったのですね〜当時の男性のドキドキ・ワクワク感を想像しながら進みます。上の絵の中にも明らかに浮かれている人、いますよね(笑)
 
大阪新町 夕陽廓の賑

出典:日本の古本屋

 
こちらは遊郭の内部。当時の賑わいの様子が分かります。
図中右下の新町橋から奥へと真っ直ぐ伸びる道が新町遊郭の中心街、いわゆるメインストリートにあたります。
 
新町
ちなみにこちらが現在のメインストリートの様子。(当時の繁栄ぶりはどこへ…)
 
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さてみなさん、突然ですが 遊郭のシステム はご存知でしょうか??
ここでは新町遊郭の遊び方について簡単にご説明しましょう。
 
新町の遊女には4つの階級があり、その中で最も格が高いのは「太夫 (たゆう)」と呼ばれました。
 
最高位である太夫には容姿はもちろんのこと、深い知性や教養、また品性や内面の人間的魅力など実に多くのものが求められ、それらを体現する太夫は一般庶民にとっては憧れの存在だったようです。
現代でいうと才色兼備のトップアイドルといったところでしょうか?
 
客は「置屋(遊女を抱えておく店で、生活の場でもあった)」で遊女の品定めをし、「揚屋(遊女を招く店)」である料亭・貸座敷に予め指名した遊女を呼んで遊んだそう。ちなみに揚屋に招かれるのは格上の遊女のみ。太夫やその下のクラスですね。
 
以下は「茶屋(揚屋に比べて簡易的な店)」に呼ばれ、さらに格下になると「店付茶屋(茶屋と置屋が一緒になったもの)」で客を迎えました。
 
新町店つき

『浪花百景』「新町店つき」歌川國員/画

出典:大阪市立図書館デジタルアーカイブ

 
客が格子越しに好みの遊女を品定めしています。「みせ(見世)」とは通りに面して設けられた格子張りの部屋を指します。
 
しん町九けん丁

『浪花名所図会』「しん町九けん丁」

出典:国立国会図書館デジタルコレクション

 
こちらは揚屋に招かれる太夫の一行が描かれています。さすがトップアイドル、行列も華やかですね。太夫になるとこうした移動すらちょっとしたイベントになるのです。
 
新町廓中九軒夜桜

『浪花百景』「新町廓中九軒夜桜」里の家芳瀧/画

出典:大阪市立図書館デジタルアーカイブ

 
この場所は新町遊郭の揚屋町街。「九軒町」と呼ばれ、格上の遊女を呼んで遊ぶ揚屋が並んでいました。九軒町には桜並木が植えられており、殊に夜桜の名所として知られていたようです。
 
九軒町
かつての九軒町は現在公園に変わっていますが、隅の方には石碑が建てられており、公園内には当時と同じ桜並木が再現されています。
 
九軒町の有名な揚屋に吉田屋、高島屋などがあります。
1672年(寛文12年)頃に新町遊郭に実在し、絶世の美女と称され歌舞伎や人形浄瑠璃に登場する「夕霧太夫」も上記の揚屋で遊んだことが伝わっています。
 
こうして江戸中期には800名を超える遊女を抱え繁栄を極めた新町遊郭ですが、その後明治初頭の松島遊廓の誕生や芸娼妓解放令の発布、更には1890年(明治23年)に起こった大火の影響で、徐々にその規模は縮小へ向かいます。
 
新町演舞場跡地
高層マンション
 
1922年(大正11年)、高島屋の跡地に 新町演舞場(芸妓による浪花踊などが演じられた劇場)が建設されました。この頃にはすでに揚屋は吉田屋など数軒を残すのみとなっていましたが、その吉田屋も1945年(昭和20年)、大阪大空襲によって焼失してしまいます。
 
二度目の大火の際、この辺り一帯は再び焼け野原となり、唯一焼け残ったのが上記の劇場でした。
戦後、劇場の一部は書籍卸売業を営んでいた(株)大阪屋が社屋として利用していましたが、現在はそれも解体されて高層マンションへ変わっています。
 
そういうわけで、現在の新町には現存する遊郭の建造物はほとんどありません。なんせ二度も焼け野原になってますからね…。
 
そんなちょっぴり寂しい新町遊郭跡ではありますが、それでも歴史の名残や色街の面影は今もそれとなく漂っていますよ。今回は取り上げませんでしたが、散策中「おっ、これはもしかして…!?」というものを私もいくつか発見しました。
 
気になる方はぜひ一度ご自分の目で確かめにいらしてくださいね!
 
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ちなみに現在、新町は美味しいお店のひしめくエリアになってます。心斎橋や難波の喧騒からは少し外れるので穴場スポットでもあります。
 
私は休憩時間にランチがてらよく足をのばしますが、ディナーはもちろん、スイーツの有名店も多々あり、遊郭抜きにして歩くだけでも楽しい所です!
 
少しだけご紹介↓↓
 
餅匠しづく01
餅匠しづく02

餅匠しづく 公式HP より

 
まずはこのブログでも何度か登場している、餅匠しづく さん。
 
味はさることながら、外観もほんまに和菓子屋さんかと疑いたくなるほど洗練されています。お洒落なあの人への手土産にももってこい。
 
ちひろ菓子店01
ちひろ菓子店02

ちひろ菓子店 公式HP より

 
こちらは激うまフィナンシェのお店、ちひろ菓子店 さん。
 
関西の有名なスイーツレポーターちひろさんプロデュースのお店です。
食べた後小っさく叫びたくなるような、そんな味。お店で買い物したら焼きたてのフィナンシェもらえるよ。
 
他にもお気に入りのお店がたくさん!大好きなエリアです。
 
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株式会社縁 では、1Fの実店舗で器と掛軸の販売を行なっております!
器は主に、江戸〜幕末明治期の古伊万里が中心のお取り扱い。
 
弊社の店舗で古伊万里のお買い物 → 新町の遊郭跡巡り → 休憩がてら美味しいランチ → お土産にスイーツのテイクアウト
 
蒸し暑さも段々落ち着き、過ごしやすくなってくるこれからの季節。
ちょっとしたタイムスリップが出来そうな、こんなお散歩コースはいかがでしょう?
江戸時代って遠い昔のようで以外と身近かも…そんな風に歴史に思いを馳せる秋の休日もなかなか粋なもんじゃあないでしょうか(*^_^*)
 
(あっ、できれば散策は平日にお越しください…弊社の店舗は土日祝お休みにしてることが多いです…)
 
 
今回はこのへんで!
 
スタッフの趣味丸出し の投稿にお付き合い頂きありがとうございました。
あー面白かった!やはり遊郭にはいつの時代も人を惹きつける魅力がある気がします。そのうち探訪記第二弾やりたいなぁ。
 
それではまたお会いしましょう〜〜〜

西洋絵画の道しるべ「アトリビュート」

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皆さま、こんにちは。スタッフC・Kです。
 
今回は弊社が主に取り扱う日本画から離れ、西洋絵画についてお話します。
 
展覧会などで西洋画をご覧になられたことがある方も多いと思いますが、「この人物は誰だろう?」とか「これは何を表した絵だろう?」と思ったことがある方も非常に多いと思います。しかし、西洋の宗教(キリスト教など)や西洋での伝説などになじみが薄い我々日本人がすぐに理解するのは難しいでしょう。
 
しかし、西洋画にはある決まりが存在します。『アトリビュート』という言葉をご存じでしょうか?
 
『アトリビュート』とは・・・・・・
西洋美術において伝説上・歴史上の人物または神話上の神と関連付けられた持ち物、その物の持ち主を特定する役割を果たす物。持物(じぶつ)。(ウィキペディア より)
 
この説明だと少しわかりにくいかもしれませんね。では、日本画で例を挙げてみましょう。
 
*****
 
想像してみて下さい。皆さんの目の前に一人の少年の絵があります。
少年
これだとこの少年が誰かわかる方はいないと思います。
では、こちらだとどうでしょう?
桃太郎図

(奥谷一陽 作『桃太郎図』 弊社の過去販売作品です)

 
少年の周囲には「犬」「猿」「雉」が描かれています。よく見るとその服装には「桃」が描かれた服を着ています。もうお分かりですね?少年の名前は「桃太郎」です。日本昔話で一二を争うほど有名なヒーローですね。
 
ここで皆さんに考えていただきたいのは、何をもって彼が「桃太郎」であると判断したか?ということです。
 
おそらく「犬」、「猿」、「雉」、「桃」といった「桃太郎」の象徴たる品を確認したからだと思います。ここでいう「犬」、「猿」、「雉」、「桃」が「桃太郎」の『アトリビュート』に当たる物ということになります。
 
*****
 
西洋絵画には『アトリビュート』が存在します。これを知ることで西洋絵画を今よりずっと理解できると思います。
 
それでは、世界でも有名な人物「聖母マリア」の絵を見てみましょう。
受胎告知

(レオナルド・ダ・ヴィンチ作『受胎告知』ウィキペディアより)

 
上の絵画は、聖母マリアが天使ガブリエルにキリストを妊娠していることを告げられる『受胎告知』です。向かって右の女性が聖母マリア、左の羽の生えた人物が天使ガブリエルです。
 
聖母マリアの『アトリビュート』で有名なものは「白百合」、「赤い服と青いマント」、「幼子イエス」などです。
 
「赤い服の上から青いマント」を着た女性、その対面に跪く天使の手には「百合の花」があります。よって、右の女性は聖母マリアだとわかるというわけです。ちなみに「白百合」は乙女の純潔を、「赤い服」は神の慈愛を表すそうです。
 
さらに聖母マリアのそばにはまだ「イエス」はおらず、目の前には天使が跪いて何か語りかけていることからこの作品は『受胎告知』を表したものであると断定できるのです。
 
その他の「聖母マリア」の作品も見てみましょう。
大公の聖母

(ラファエロ・サンツィオ 作『大公の聖母』ウィキペディアより)

 
レオナルド・ダ・ヴィンチの『受胎告知』とは画風も場面も違いますが、赤い服に青いマント赤い服に青いマント、幼子(イエス)が描かれています。人物だけしか描かれていないにもかかわらず、この女性は「聖母マリア」だとわかります。
 
他にも
キリスト・・・・・羊、十字架、茨の冠など
洗礼者ヨハネ・・・・・ らくだの皮の衣、斧と切株、十字架
等があります。
 
このように『アトリビュート』を知ることで西洋画への理解が深まり、より楽しく作品をご覧いただけるようになると思われます。西洋画を鑑賞された方はその作品の『アトリビュート』が何だったのか、何を表していたのか考えてみるのも新たな楽しみとなることでしょう。
 
ここまでご覧いただきありがとうございました。

三十石船と京坂画家の交流(展覧会入門として)

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こんにちは。大卍犬太(スタッフD)です。
 
先日、京都国立近代美術館で開催されている展覧会「サロン!雅と俗-京の大家と知られざる大坂画壇」を観に行ってきました (2022.03.23 – 05.08 開催。紹介ページ)。
メインビジュアル
江戸時代、京・大坂・江戸が日本の三都で経済・文化の中心地であったにも関わらず、後世の日本の美術史研究の中で京都と江戸の画壇については活発な議論がなされ、展覧会なども盛んに開催されてきたため一般の注目を集めてきた一方で、大坂についてはその陰に隠れ、文化的な空白の地帯とすらみなされてきた時代があったそうです。
 
その美術史観に異論を呈し、京都と大坂の画家たちの活発な交流があったことと、その他地域からも文化人が両地域に集まることで形成された「文化サロン」とも呼べるネットワークが形成されていたことに着目し、大英博物館も含めた国際的な協力の中で研究が行われた初めての大規模展覧会とのこと。
 
大阪を拠点にしております弊社でも、非常に取扱いの多い画家の作品がてんこもり。数・質共にとても充実しており、おススメです。
 
そこで、こちらの展覧会を観に行かれる前に読んでおくと、すこ~しだけ理解しやすくなるかも?という入門編として、取り上げられていた流派・画家などについて以下で概説してみます。
 
(会場では撮影は一切禁止でした。以下の絵画の画像は主に Google Arts & Culture より転載しています。説明の便宜上のもので、京都国立近代美術館で展示されている作品ではありません。)
 
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まず、今回の展覧会で取り上げられた画家たちが活躍した江戸中期頃以前までのお話。
土佐光信

(土佐光信・筆 こちら より)

 
平安時代の貴族文化の中で発展した大和絵の伝統を受け継ぐ土佐派と、その土佐派の画風に、室町時代に中国から輸入された禅宗文化の1つである水墨画(北宗画)の様式を取り入れ、完成された狩野派。
 
これらが日本の絵画史における二大流派と言え、後者は権力者の御用絵師としての地位を得ることで江戸時代を通じて画壇の覇権を握りました。
狩野永徳

(狩野永徳・筆 こちら より)

 
江戸前期に活躍した狩野探幽が亡くなると、幕府に好まれる画題に縛られることなどで画風がマンネリ化し、停滞していく狩野派。
 
一方で、町人文化が花開く時代、それまで描かれなかった庶民の生活を、狩野派を破門された久隅守景や英一蝶などが描きます。また風俗を描き版画として大量生産された浮世絵が庶民の娯楽に。京都では、町絵師だった俵屋宗達が雅な京文化の復権の一翼を担い、琳派の萌芽が見られました。
 
*****
 
そして、今回の展覧会の舞台である江戸中期頃以降。
 
当時流行し、後世に大きな影響を与えたジャンルとして、長崎派(南蘋派)の影響を受けた写生画と、江戸初期に渡来した黄檗僧の多くが余技として描いた南宗画・文人画があります。
 
鎖国体制下、唯一海外との交流のあった長崎で生まれた諸画派の総称を長崎派と呼びます。
 
八代将軍・徳川吉宗(在職:1716 – 1745)が中国古画を求めたものの本国で秘蔵されており入手が困難だったため、その代替として宮廷画家の沈南蘋が招聘され、1731-33年の2年弱の長崎滞在の間に、写生的で精緻な彩色花鳥画の技法を伝えました。そして沈南蘋の直弟子・熊代熊斐の門下であった鶴亭が京坂にその画風を伝えました。
沈南蘋・円山応挙

(左:沈南蘋・筆 こちら 右:円山応挙・筆 こちら)

 
その写生的技法は、近現代の京都画壇までその系統が続く円山派の祖・円山応挙や、伊藤若冲などの大家にも大きな影響を与えました。
 
南宗画(文人画)は、元々は中国において、職業画家の描いた北宗画(院体画)に対し、儒学の教養を備えた高級官僚(文人)が余技として制作したもので、日本でも町人としての本業の傍ら描かれました。
与謝蕪村

(与謝蕪村・筆 こちら より)

 
日本で描かれた文人画を区別して南画とも呼びます。大和郡山藩(奈良)の家老を務めた柳沢淇園などを先駆とし、京都の池大雅や大坂の与謝蕪村などが大成しました。
 
*****
 
この時代、日本全国の画家や文化人たちが憧れて訪ね交流を深めたのが、大坂・北堀江の木村蒹葭堂(けんかどう)の邸宅です(跡地である大阪市立中央図書館に記念碑が立っています)。
 
幼いころから本草学(薬用となる植物・動物・鉱物などを分類・研究する学問)に興味を持ち、石や貝類などありとあらゆる珍しいものを収集して、日本で初めての博物館を作ったとも言われています。海外にもその名が轟いていたとか。
木村蒹葭堂像

(木村蒹葭堂像 谷文晁・筆 Wikipedia より)

 
大岡春卜、柳沢淇園、池大雅、鶴亭に絵を学び、文人画家の一人としても有名。京坂のみならず、備中岡山の浦上玉堂、豊後(大分)の田能村竹田、江戸の谷文晁なども訪ね、親しくしていました。
 
ところで、ブログタイトルの「三十石船」って何?と思われましたでしょうか?
 
当時、画家たちも含め、人々やモノが京坂を行き来するのによく使われていたのが、淀川を往来していた船。米三十石積めるとのことで三十石船と呼ばれたそうです。大量のものを運ぶ場合は、人馬による陸上輸送よりも安価だったとか。
 
展覧会には、伊藤若冲が京都・伏見から大坂・天満橋まで淀川を下り描いた版画作品「乗興舟(じょうきょうしゅう)」(文化遺産オンラインの 紹介ページ)が展示されていました。
 
*****
 
展覧会入門は以上ですが、番外編として、この三十石船についてもう少し。
 
古伊万里ツウの方なら、三十石船と聞いてピンとくるのが・・・そう「くらわんか」です。
 
古伊万里の焼かれた佐賀県・有田に隣接する長崎県の波佐見で焼かれ、染付で素朴な文様、ボテッとした厚みのある日用雑器が、三十石船に乗っていた客に小舟(煮売船(にうりぶね)、通称くらわんか舟)で近づいて「飯くらわんか」などと汚い言葉で料理や酒を売る店で用いられたことから「くらわんか碗」や「くらわんか手」の器などと呼ばれます。
 
伊万里からやってきたということで、当時は伊万里焼と呼ばれ、また混同して扱われていたようです。
歌川広重

(こちら より)

 
歌川広重の京都の10か所の名所を描いた浮世絵シリーズ「京都名所之内」の「淀川」には、三十石船の乗客にくらわんか舟が近づいて料理を販売する場面が描かれています。
 
大阪・枚方市にある市立枚方宿鍵屋資料館は、当時三十石船に乗り降りする人たちの宿として使われた町屋をほぼそのまま残す貴重な建物で、発掘されたくらわんか碗などの資料が展示されています。
市立枚方宿鍵屋資料館
実は「くらわんか」という呼び名ですが、枚方にあった宿場を中心に上下一里(約4km)付近を通る船に販売していたことから枚方で名づけられたのだそう。これは知らなかった・・・。
 
長々と書いてしまいましたが、最後までお付き合い頂きまして、ありがとうございました。三十石船が往来し、京坂の画家が交流していた往時の空気を感じてみたい方は、ぜひ両館を訪ねてみて下さい。
 
大卍犬太(スタッフD)でした。
 
 
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◆弊社では、ヤフオク! ストア にて、江戸絵画を初めとする書画・屏風などを販売しております。
本店 ・ あやめ店 ・ もみじ店
 
◆『心斎橋 暮らしのこっとう』では、普段の食卓でお使い頂ける古伊万里の器を中心に販売中。
・店舗詳細はこちら
・公式SNSからのご注文・お取り置きも承ります。
インスタグラム ・ フェイスブック ・ ツイッター
 
(ご質問・お問い合わせは、代表電話 06-6251-1355 あるいは メール にて)

兵庫陶芸美術館で、古伊万里のお勉強をしたお話。

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こんにちは。大卍犬太(スタッフD)です。
 
丹波焼の里、兵庫県丹波篠山市にある 兵庫陶芸美術館
「心斎橋 暮らしのこっとう」でも扱っております古伊万里をフィーチャーした展覧会を時折されており、私も注目しているスポットです。
 
8月いっぱいで終了してしまったのですが「赤木清士コレクション 古伊万里に魅せられて―江戸から明治へ―」という特別展に(感染症対策をきっちり取った上で)行ってまいりました。
赤木清士コレクション

(上記リンク先より)

 
イベントタイトルに冠されている赤木清士さん(1932-2019)は、兵庫県生まれで、工務店を起業。建設業に携わる傍ら、明治期を中心に、文明の黎明期を物語る科学技術資料の収集と、その一環として陶磁器の収集にも情熱を傾けられたのだそうです。そして、陶磁器488点が今年3月、当美術館に寄贈されることに。
 
今回、特に惹かれたのが、以前書いたブログ「担当、ついに(!)有田の地を踏む。」でも、言及しました 佐賀県立九州陶磁文化館 の館長、鈴田 由紀夫 さんによる記念講演会。NHKの人気番組「ブラタモリ」にも出演されたこともある有名人です。お国言葉の優しいイントネーションでのお話に、自然と夢の世界に連れて行かれそうに…というのは冗談で(笑)興味深い内容に、きっちりメモを取りながら耳を傾けました。
 
以下には、備忘録の意味も込めまして、本展覧会で勉強させて頂いたポイントを何点か挙げたいと思います。
 
***
 
日本において磁器が生産された地域と順番について
 
有田(伊万里)焼の肥前(佐賀県)が、江戸初期、日本最初の磁器生産が行われた土地であることは有名ですね。そして江戸後期になってその技術を身に着けた加藤民吉が、瀬戸(愛知県)での磁器生産に弾みを付けたことで、一般庶民に磁器の器が行きわたることになり、後世になって陶磁器が瀬戸物と呼ばれるようになった、というストーリーは知っていました。
 
でも実は、江戸時代を通して、磁器生産はもっと色々な場所で開始されていたそうです(短期間で途絶えた窯も)。
map

(講演会配布資料を参考に自作)

【17世紀~】
・有田(伊万里)焼(佐賀県)
・鍋島(鍋島様式の伊万里)焼(佐賀県)
・波佐見焼(長崎県)
・平戸(三川内)焼(長崎県)
・九谷焼(石川県)
・姫谷焼(広島県)
 
【18世紀~】
・志田焼(佐賀県)
・京焼(京都府)
・砥部焼(愛媛県)
 
【19世紀~】
・瀬戸焼(愛知県)
・美濃焼(岐阜県)
・三田・王地山焼(兵庫県)
 
***
 
鍋島焼について
 
鍋島焼は、佐賀県伊万里市南部の大川内山(おおかわちやま)にあった藩直営の窯で、将軍家や諸大名への献上品として焼かれていた焼き物。これは販売用ではなく「公務員」の陶工たちによって作られていた、という表現をされていました。
 
作られていたのはお皿が多く、その形状は 木盃形(もくはいがた)と呼ばれる深さのある円形のお皿に 櫛高台(くしこうだい)と呼ばれる櫛の歯ような縦縞模様(櫛歯文)が描かれた高台が付いた独特なもの。
 
時代の見方として、お皿に深さがあり大きいサイズのものほど新しい。高台の櫛の長さが長いものほど新しい、とのこと。
鍋島焼

(赤木清士コレクション目録 p.43)

志田焼について
 
志田焼は、有田町から南西に20kmほどの、嬉野市塩田町の志田地区で焼かれ、現在も生産が続いています。江戸時代は、伊万里焼として流通し、地元の一部の人のみ「志田焼」と呼んでいたそう。
 
江戸後期に多く作られた染付の大皿に特徴があり…
 
絵付の白抜きに 墨弾き の技法が用いられています。これは、まず素地に墨で文様を描き、その上から呉須で着色。施釉後本焼きすると、墨が焼け、墨で描かれた部分が白抜きの文様になるという技法です。
 
安価な陶石で素地を作り、その色を白く見せるために表面に化粧土を塗る 白化粧 と呼ばれる技法が用いられました。裏面の縁を見ると、液だれのような部分が見られ、化粧土雫跡などと呼ばれるそうです。
志田焼

(赤木清士コレクション目録 p.37)

 
***
 
文様による時代の変遷
 
【唐草文】
・江戸前期:菊や牡丹の「花」が中心でその周りに唐草
・江戸中期:「蔓」がより細かく繊細に
・江戸後期:花が消える
・幕末:蔓が簡略化、細切れの微塵唐草に(”こっぱみじん”に)
 
【蛸唐草文】
・江戸前期:蔓も葉も太く、輪郭線の中を塗る形
・江戸中期:線描になる
・江戸後期:より単調に”ぐるぐる”巻きに
 
【見込みに描かれる円形の松竹梅文】
・江戸中期・前半:幹が太く、中央から外側へしっかり描かれている
・江戸後期・幕末へ時代が新しくなるにつれて、略されあっさりとした描き方に
 
 
西洋人の文様
 
司馬江漢の西洋画が人気を博した1800年前後の南蛮趣味を反映し、古伊万里にも西洋人が描かれるように。ポルトガル人・スペイン人を南蛮人、オランダ人を紅毛人と呼びました。
紅毛人

(赤木清士コレクション目録 p.70)

 
***
 
展覧会・講演会の内容は、もちろんまだまだ盛りだくさんでしたが、今回はこの辺で。
 
ノートを綺麗に清書したようなブログになってしまいました汗 いくら勉強しても、沼のように奥深い古伊万里の世界。ぜひ皆さんも、担当と一緒にハマってみませんか?
 
大卍犬太でした。
 
 
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