七草粥の習慣と七草の意味

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皆さま、明けましておめでとうございます。
担当のC・Kです。
 
まだまだコロナが流行っています。
皆さま、お正月はいかがお過ごしでしたでしょうか?
おせち料理は召し上がられたのでしょうか?
 
お正月の食事といえば、真っ先におせち料理が思いつきますが、本日、1月7日の食事といえば 「七草粥」 でしょう。もしかしたら、おいしいおせち料理を食べた後に、質素とすら思える七草粥を食べるのが嫌いな方もいるかもしれませんね。
 
今回は、七草粥について語っていきたいと思います。
 
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春の七草は、皆さまよくご存じだと思いますが 「セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロ」 ですね。
 
では、この七草粥の習慣はいつから始まったのでしょうか?
 
今に残る日本の数々の習慣、文化は、大陸(中国)からもたらされたものが日本に合うように変化したり、土着のものと結びついて形になったものです。七草粥もその一つ。
 
中国、漢の時代、新年に日にちを動物や人に見立てて、占いを行っていました。1日は鶏、2日は犬、3日は猪、4日は羊、5日は牛、6日は馬、7日は人、8日は穀。そして、唐の時代になると、「1月7日(人の日)」に、「七種菜羹(ななしゅさいのかん)」という七種類の野菜を入れた汁物を食べて、無病息災を祈る風習が始まります。
 
そんな風習が平安前期頃、日本に伝わります。日本では、お正月に若菜を摘んで食べる「若菜摘み」という風習がありました。「若菜摘み」という言葉は、日本最古の書物「万葉集」にも登場するほどです。この「若菜摘み」と「七種菜羹」が結びつき、今の七草粥へとつながっていったと言われています。
 
しかし、まだこの頃は七草の種類までは決まっていませんでした。
七草粥

(七草粥 ウィキペディアより)

 
七草の種類が決められたのは、鎌倉時代、「蔵玉和歌集(ぞうぎょくわかしゅう)」に書かれたことがきっかけだそうです。その後、室町時代になると、立派な行事になっており、江戸時代には、五節句の一つとして、欠かすことの出来ない行事となります。
 
これが、現在までずっと続いているのです。
 
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また、七草、それぞれにも意味があります。
セリ
セリ(芹):競り合うように生えることからこの名がついたとされています。「(競争に)競り勝つ」という意味がかけられています。
 
 
ナズナ
ナズナ(薺):雑草の代名詞、ペンペン草のことです。ナズナには、「なでて汚れを取り除く」という意味があるそうです。
 
 
ゴギョウ
ゴギョウ(御形):ゴギョウとは「人形」のこと。これは、「仏のからだ」を表し、縁起物とされています。
 
 
ハコベラ
ハコベラ(繁縷):「繁栄がはびこる」ことから、縁起物とされています。
 
 
ホトケノザ
ホトケノザ(仏の座):現在はコオニタビラコと呼ばれ、黄色い花を咲かせます。仏様が座っている座のように葉がつくのでこの名前で呼ばれました。
 
 
スズナ
スズナ(菘):スズナは、蕪のことです。神を呼ぶ鈴に見立てられ、「鈴菜」と書くこともあります。
 
 
スズシロ
スズシロ(蘿蔔):スズシロは、大根のことです。「汚れのなき清白」を意味します。
 
 
このように七種、それぞれが縁起の良い食材です。さらに、それぞれ栄養があり、体に良い効能をもたらすものばかりです。千年以上も前から、日本人は、その年一年の健康を願いながら、七草粥を食してきました。
 
今日まで残るその文化を、これからも大切にしていきたいですね。
 
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ここまでご覧いただきありがとうございました。
今年一年の、皆様のご健康とご多幸を、心からお祈りしています。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

【買取コラム】オンラインでお手軽査定!骨董屋の嫁が教える、上手な写真の撮り方

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ご高齢の方でも、スマホを使うのに抵抗のない方が増えてきましたよね。
 
遺憾ながら、コロナウイルスの影響が、オンライン活用の後押しになったことは否めません。
骨董屋だからといって、オンライン査定の波に乗らないわけにはいかない!ということで、我が社でも、LINEを使ったビデオ通話査定や、査定したい商品の写真を送ってもらうスタイルでの査定が大好評です。
 
写真を撮って送るだけ~♪とはいえ・・・普段触れる機会なんてほとんどない骨董品、どこをどう撮ったらいいの!?とお困りではありませんか?
そこで今回は、いくつかの骨董品をピックアップして、上手に業者に査定してもらう撮り方 をご紹介していきます!
 
画像で見てみましょう。
(各画像をクリックすると、別タブが開き、画像を拡大して頂くことができます★)
 

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最近はメルカリやヤフオクなど、自分で出品するため撮影するのに慣れている方も多いですよね。
弊社に写真を送ってくださる方の中にも、とても上手に魅力的に撮影している方もおられてびっくりすることがあります。
 
例えばフリマサイトでお洋服を売ってみようとしている自分を想像してみてください。
洋服の例
①ハンガーや床置きで「全体がわかる写真」を撮る
②リボンや刺繍などの「イチオシポイント」を撮る
③ファスナーやボタンなどの「チェックポイント」を撮る
④ブランドタグやお洗濯タグなどの「文字情報」を撮る
⑤ホツレやシミなどの「ダメージ箇所」を撮る
⑥純正の箱や洋服カバーなど、「付属品」を撮る
 
自分が出品する立場でなくとも、買う側ならこういった写真情報があると買いやすいなあ~と思いませんか?私たちが得意な掛軸や骨董品も、お査定のために見せていただきたいポイントは同じなんです。
 
いかがでしたか?
これらのポイントをおさえて、オンライン査定を行っている業者さんをうまく活用!断捨離や遺品整理を少しでもハッピーなものにしていくお手伝いになったら嬉しいです。
株式会社縁 公式お問い合わせ専用LINE
 
こちらは一括査定してもらえるおすすめサイト!
査定をするのは運営会社が審査し契約登録した業者さんばかりなので安心です。わが社も掛軸・骨董カテゴリで参加させていただいています。
SATEeee(サテイー)でかんたん、あんしん、一括査定。
 
※どこの業者さんでも、写真でのお査定はあくまで簡易的なもの(参考額)になります。実物を拝見した際に、写真では判別しづらい傷や欠点、コピー・贋物などがあるとお査定額が前後する可能性がありますので、予めご承知おきのうえご利用くださいませ。

浪華の女流画家①「島成園」

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こんにちわ。バイヤーA です。
 
大正から昭和初期に、大阪では多くの女性画家が活躍しました。
 
それ以前の美術界では、女流画家が画壇で活躍する事は難しかったのですが、それには、結婚や家事、育児などの日常生活と画業を両立する事が困難だったり、趣味的なものに留まってしまったりと、才能云々よりも、女性が男性と互角に美術を修練する環境や社会的状況が整っていなかった、という背景が要因として大きかったようです。
女流画家

(大正時代の女流画家たち。左から岡本更園、吉岡(木谷)千種、島成園、松本華羊)

 
しかし、当時のこうした時代背景と共に忘れ去られていく画家を扱う研究や出版は、近年増加の傾向で、今日では「なにわ」に住む我々大阪人にとっても、近隣の美術館などで展覧会も開催されたり、地元の作家の作品に触れる機会が増えてきました。
 
大阪南船場に店舗を構える「縁」でも、浪華の女性画家を少しでも皆さんにご紹介させていただきたく、第一回目は大正女流画家ブームの火付け役 「島成園」 を紹介しようと思います。
島成園
堺市に生まれた成園は、幼い頃から絵画を好み、15歳の時に家で、町絵師の父(島栄吉)と画家の兄(島御風)から画法を学びます。
 
大正元年、弱冠20歳のときに、第六回文展にて「宗右エ門町の夕」で初入選。美人画を得意とし、翌年は「祭りのよそおい」で連続入選して名声を確立します。それ以降も、美人画の領域を超えた衝撃的な作品を次々と世に送りました。
祭りのよそおい

「祭りのよそおい」

 
成園の、他の若い女性画家達への影響力は非常に大きく「絢爛で妖艶ともいうべき色彩の中に陶酔しているような傾向は、それだけで若さと感覚の奔放さを現している」と評価され、近代大阪で、多くの女性画家達と共に一大勢力を形成しました。
化粧

「化粧」

 
東京、京都が中心とされていた当時の日本画壇において、大阪からの年若い女性画家の出現は画期的なこととして迎えられ、京都の上村松園、東京の池田蕉園とともに「三都三園」と並び称されました。
 
近代美人画の先駆者となり、更には美人画の粋を超え、近代画家の主題である自己の内面主張を表現するにいたった成園は、絵画のみならず、版画・雑誌や小説の口絵・挿絵も手掛けており、現代でいうグラフィックの世界においても、その時代の寵児であったとされています。
無題

「無題」

 
ちなみに弊社ホームページでも、現在、成園の傑作と評せます美人画を販売中です。(こちら にて)
ぜひご高覧下さい。
 
今後、島成園及びその周辺女流画家の作品は、近代絵画史上で再評価されていくのではないでしょうか。これからも成園のみならず、浪華の女流画家を少しずつ紹介させていただきます。
 
お楽しみに!

【買取コラム】何が違うの?鑑定と査定

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断捨離や遺品整理そろそろやらなきゃ…
そして師走も半ばを過ぎた今頃なら、大掃除のために物を減らしたい!と、今日もありがたいことにお買取りについてたくさんのお問い合わせをいただいています。
 
さて今回は、そんなお客様とのお話の中で時折起きる、言葉の違いについてです。
 
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お電話口でお客様より「鑑定をしてください!」とお願いされると、私たちは「鑑定は致しかねますのでお査定をさせていただきます!」とお答えすることになります。
 
・・・画面の前のあなた、いま困惑していますね?
 
「鑑定」「査定」 、なんとなく似たような響きのこの2つのコトバ。
具体的に何が違うんでしょうか。
 
まずは私たちのホームページでご覧いただける、こんな掛軸を例にして見てみましょう。
千鳥画賛

(弊社取扱品 : 掛軸<大田垣蓮月>千鳥画賛 こちら にて)

 
依頼人:Aさん
業者側:Bさん とします。
 
この掛軸に対して 鑑定 というのは「署名通り大田垣蓮月が描いたものに間違いないと断定しその証明書を発行します。」ということです。そして鑑定を依頼したAさんは、鑑定料や証明書発行料などをBさんに支払うことになります。
 
対して 査定「大田垣蓮月と署名があるこの掛軸を〇〇万円という評価で買取ります。」となり、査定したBさんが依頼人のAさんへお金を支払うことになります。
 
 
査定評価の段階で、我が社のバイヤーは大田垣蓮月の本物か?どこかの画家が描いた模写か?を含めて吟味しますので、お客様にご説明する際はバイヤーの意見として、これが本物だと思うか否か・出来の良し悪しなどを解説いたします。しかし、そこに科学的根拠などの証明になりうるものは存在しません。
 
掛軸などの日本画に対して発行されている鑑定書のほとんどは、明治大正生まれ~昭和に没した画家のもの。その画家本人の血族や弟子たちが判定をすることができるからです。
 
対して、私たちが得意としている江戸時代の絵画はどうなのかというと、その血筋や弟子は途絶えてしまっていて、誰も証明することができないのです。
 
はたして大田垣蓮月、彼女は何年生まれ・何年没でしょうか?
(答えはぜひ商品ページをご覧ください!)
 
***
 
ではここで広辞苑を引いてみましょう。
 
かん-てい【鑑定】
①物の真偽・良否などを見定めること。めきき。「筆跡―」「審議を―する」
②〔法〕学識経験を有する第三者が、裁判官の判断能力を補助するため、専門的見地からの判断を報告すること。
 
さ-てい【査定】
(金額・等級などを)とりしらべて決定すること。「税額の―」「土地を―する」
 
(岩波書店 広辞苑 第五版より)
 
今読んでみると、ピン!と来ていただけたのではないでしょうか?
 
 
ここまで説明させていただいて、改めて申し上げましょう。
 
株式会社縁では、鑑定はいたしておりません。
私たちが行っているのは、あくまで「査定」です。

 
テレビに出るほどの著名な骨董屋さん、独自の証明書を発行する古美術店、はたまた全国各地にお店を持つ手広い買取り屋さんなどいろいろなスタイルをもつ骨董業界。
 
そのお店さんの魅力も様々ですから、私たちが日々いろいろな骨董品を査定しているように、骨董品や掛軸、お茶道具などの買取を依頼するときには、いろんな業者さんを見比べて、お客様目線でも「査定」をしてくださいね。
 
***
 
あなたの「査定」の一部に私たちもぜひ加えてください!
株式会社縁 買取事業部へのお問い合わせは・・・
 
◆ 買取専用TEL : 0120-261-540(9:00〜19:00 日祝も受付可能)
◆ メール : kaitori@art-en.jp
◆ お問い合わせフォーム : https://www.art-en.jp/contact/
◆ 公式ライン : https://lin.ee/NKBjqaab
 
株式会社縁 買取部の公式ライン 友達募集中!ぜひ登録をお願いします。
詳しくは こちら から。

担当、ついに(!)有田の地を踏む。

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こんにちは。大卍犬太(スタッフD)です。
 
「心斎橋 暮らしのこっとう」で現在、主に扱っております 古伊万里 の器。
 
お客様からも多くを教わりながら(まだまだ未熟ながら)今まで商品知識を蓄えてきたわけですが、その 発祥の地である有田 (佐賀県西松浦郡有田町)には、なかなか行く機会がありませんでした。しかしながら、今回、ようやく訪ねることができました!
 
(昨今の状況もありますので、具体的にいつ、というのは伏せておきます・・・。)
 
ここでは、実際にまわった時系列ではなく、古伊万里(の歴史)について簡単に説明をすることを主軸に、現地で撮った写真を並べてみたいと思います。
 
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まず、日本初の磁器として伊万里焼が生まれたきっかけは、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役、1592~1593、1597~1598)。これは「やきもの戦争」とも呼ばれるように、秀吉が亡くなり日本へ撤退してくる際に、西国の諸大名が多くの朝鮮人陶工を連れて帰ってき、彼らの技術によって新たな焼き物が数多く生み出されました。その1つが伊万里焼だったのですね。
 
そこでまずは、佐賀県の北端に、朝鮮出兵の拠点として築かれた 名護屋城跡 。建物は現存していませんが、遺構が残されており、歩いて見てまわることができます。
名護屋城跡
天守閣跡の場所から北西に向かって海を望みます。中央より右のふたこぶの島は松島という島だそうですが、その向こうに平坦に見えているのは壱岐です。さらにその先に対馬や朝鮮半島があるのですね。
 
名護屋城図屏風
敷地内にある名護屋城博物館に展示されていた「名護屋城図屏風」です。
 
築かれた当時、敷地面積は大坂城に次ぐ規模で、またその周囲3kmに渡って120近い諸国の大名が陣を張っていたらしいです。車を運転していたので写真は撮れなかったのですが「伊達政宗陣跡」という名前の信号があったのには「お~!はるばる伊達ちゃんまで来てたのね」と思いました(?)秀吉の、一世一代の作戦だったことが窺えますよねぇ。
 
***
 
そして、鍋島藩の藩祖・鍋島直茂が連れて帰ってきた朝鮮人陶工の李参平が、有田の 泉山 で、原料となる良質の磁石鉱を発見。これが1616年の、日本初の磁器誕生につながりました。
泉山磁石場

(国指定史跡・泉山磁石場)

 
焼き物を焼くための窯は、すこし前の16世紀後半に唐津で初めて導入されたとされている「登り窯」。山の斜面に沿って、階段状に何個も焼成室を並べるという構造で、写真の天神森窯跡と天狗谷窯跡は、有田でも 最初期の窯 があったところなのだそうです。
天神森窯跡

(天神森窯跡)

天狗谷窯跡

(天狗谷窯跡)

と言っても、今残ってるのは斜面だけなので、あまりピンと来ませんよね・・・。
 
ちなみに、李参平の直系の子孫である14代目が現在も作陶をされているそうで、彼が有田の町を歩いて解説するYouTubeチャンネルがあります。動画の中で、この天神森窯跡では、子供の頃ダンボールで”草スキー”していたっていうお話をされています (こちら にて。YouTubeが開きます)。
 
とてもエモくてジワる佐賀弁でのローカル話・・・古伊万里ファンの皆さんはぜひチャンネル登録を!
 
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少し話が逸れましたが、続いては、有田中心部の見どころをいくつか。
染付有田皿山職人尽し絵図大皿
これは、佐賀県指定重要文化財になっている 「染付有田皿山職人尽し絵図大皿」 。有田陶磁美術館に所蔵されており、古伊万里の制作風景が工程ごとに描かれているお皿なのですが、古伊万里の解説本には必ずと言っていいほど出てきます(本物が見れてちょっと感動)。右ななめ上あたりに泉山が描かれていますね。
 
有田には、有田焼を代々焼いている窯元・製陶所が数多く立ち並んでいますが、中でも有名なのは 柿右衛門窯 ですよね~。
柿右衛門窯
初代・酒井田柿右衛門が、色絵や赤絵と呼ばれる、素地に釉薬をかけて焼成した白磁や染付の上に赤やその他の色彩で絵付けをしてもう一度焼成して制作する様式を、日本で初めて完成させました。
 
そして、珍しい風景、という意味で見逃せないのが、陶山(すえやま 俗に「とうざん」とも)神社。有田の町を一望できる小高い山の上にあり、氏神として窯元や有田の商人たちの信仰を集めてきたそうです。李参平と応仁天皇が主神で、鍋島直茂も奉られています。
陶山神社
狛犬さん
鳥居や狛犬さん、灯篭などが焼き物でできています。
 
この神社が珍しいポイントは他にもあって、神社の敷地内、境内へと向かう階段の途中に線路が通っており、電車が通過していくのです。しかも踏切には遮断機なし!
狛犬さん
車の通らない場所なら遮断機を設置する義務はなく、神様の通り道を遮らないように、ということなのだそうですが・・・。訪れた際には気をつけないとですね。
 
***
 
さて、文中でも有田焼、伊万里焼、古伊万里と、呼び名が混在していますが、その理由について。
 
有田で焼かれたのに伊万里焼と呼ばれたのは、船が主な輸送手段だった時代、伊万里の港から日本全国、そして長崎出島を経て世界に向けて積み出しされたから。現在の伊万里市の市街地には、焼き物の飾りつけや、往時のことを解説した説明書きが随所に見られます。
伊万里焼の飾り
伊万里津の説明
伊万里から海を臨む
伊万里川の最下流にある橋から海の方向を望む。歴史を知って眺めると、何となく感慨に浸れるような。
 
一般的に、明治30(1897)年に鉄道が開通して輸送手段が船から鉄道に移行すると、有田で焼かれた焼き物は有田焼、伊万里で焼かれるのが伊万里焼、と呼ばれるように。そして、それ以前の船で積み出されていた当時のものは「古伊万里」と呼んで区別するようになりました。
 
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現在、伊万里焼と呼ばれる焼き物の窯元は、伊万里市街地から車で10分ほどの山間の地区、大川内山(おおかわちやま) に集まっています。
 
江戸時代、このエリアでは、有田から選抜され連れて来られた優秀な陶工たちが、鍋島藩直轄とされた窯で将軍家や諸大名への献上品として最上手の磁器、いわゆる 鍋島焼(鍋島様式の古伊万里)を焼いていました。
 
その技術は門外不出ということで、関所が設けられ、人とモノの往来は厳しく制限されていたそうです。
大川内山関所
大川内山の町並み
こじんまりとしたエリアに、いくつもの窯元が立ち並び、まさに焼き物の里の風情。
陶工無縁塔
急にお墓!?・・・これは「陶工無縁塔」といい、朝鮮から連れて来られ、二度と故郷の土を踏むことなくこの地で一生を終えた無名の陶工たちを供養すべく、点在していた880もの墓石を集めて大正時代に作られたものだそうです。光のウラには必ず影が・・・。シミジミと手を合わせました。
 
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この記事の最後に、古伊万里に関する情報が集約されており、ファンならマストな場所のご紹介。それは、JR有田駅にほど近いところにある 佐賀県立九州陶磁文化館 です。
焼き物の制作工程
有田磁器の銘のいろいろ
ここに来れば焼き物の全てがわかる・・・いや、正直一度では消化し切れない程の情報量。近所にあったら通いつめるのに~。
 
ここで絶対に見逃せないのは「柴田夫妻コレクション」。実業家だった夫妻が生涯をかけて収集し、九州陶磁文化館に寄贈した膨大な数の古伊万里が、制作年代順に並べられて展示されており、作風の変化がわかるようになっています。
柴田夫妻コレクション01
柴田夫妻コレクション02
柴田夫妻コレクション03
本当に貴重。まさに実物で作られた年表に入り込んだような空間は圧巻でした。
 
ちなみに、資料てんこ盛りの九州陶磁文化館は、入場無料(!)で撮影し放題。ほんまに太っ腹がすぎますぜ、兄貴。
 
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担当の有田(と伊万里)探訪。今回はここまで。
 
日々の疲れを癒しに行く旅行といった場合には、その土地の歴史背景などを詳しく調べてから行くことってあまりないと思いますが、今は限られた場所で楽しむことが余儀なくされる状況。最大限その深みと厚みを増すために、少しだけ予備知識を蓄え、現地でそれをさらに深める、という形もアリなのではないでしょうか?
 
最後までお付き合い頂きまして、ありがとうございました。大卍犬太でした。
 
 
※古伊万里はヨーロッパにも輸出され、陶磁器製造に影響を与えていた!
   昨年訪れたドイツ(マイセンなど)でのお話は こちら
 
 
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