浪華の女流画家①「島成園」

こんにちわ。バイヤーA です。
 
大正から昭和初期に、大阪では多くの女性画家が活躍しました。
 
それ以前の美術界では、女流画家が画壇で活躍する事は難しかったのですが、それには、結婚や家事、育児などの日常生活と画業を両立する事が困難だったり、趣味的なものに留まってしまったりと、才能云々よりも、女性が男性と互角に美術を修練する環境や社会的状況が整っていなかった、という背景が要因として大きかったようです。
女流画家

(大正時代の女流画家たち。左から岡本更園、吉岡(木谷)千種、島成園、松本華羊)

 
しかし、当時のこうした時代背景と共に忘れ去られていく画家を扱う研究や出版は、近年増加の傾向で、今日では「なにわ」に住む我々大阪人にとっても、近隣の美術館などで展覧会も開催されたり、地元の作家の作品に触れる機会が増えてきました。
 
大阪南船場に店舗を構える「縁」でも、浪華の女性画家を少しでも皆さんにご紹介させていただきたく、第一回目は大正女流画家ブームの火付け役 「島成園」 を紹介しようと思います。
島成園
堺市に生まれた成園は、幼い頃から絵画を好み、15歳の時に家で、町絵師の父(島栄吉)と画家の兄(島御風)から画法を学びます。
 
大正元年、弱冠20歳のときに、第六回文展にて「宗右エ門町の夕」で初入選。美人画を得意とし、翌年は「祭りのよそおい」で連続入選して名声を確立します。それ以降も、美人画の領域を超えた衝撃的な作品を次々と世に送りました。
祭りのよそおい

「祭りのよそおい」

 
成園の、他の若い女性画家達への影響力は非常に大きく「絢爛で妖艶ともいうべき色彩の中に陶酔しているような傾向は、それだけで若さと感覚の奔放さを現している」と評価され、近代大阪で、多くの女性画家達と共に一大勢力を形成しました。
化粧

「化粧」

 
東京、京都が中心とされていた当時の日本画壇において、大阪からの年若い女性画家の出現は画期的なこととして迎えられ、京都の上村松園、東京の池田蕉園とともに「三都三園」と並び称されました。
 
近代美人画の先駆者となり、更には美人画の粋を超え、近代画家の主題である自己の内面主張を表現するにいたった成園は、絵画のみならず、版画・雑誌や小説の口絵・挿絵も手掛けており、現代でいうグラフィックの世界においても、その時代の寵児であったとされています。
無題

「無題」

 
ちなみに弊社ホームページでも、現在、成園の傑作と評せます美人画を販売中です。(こちら にて)
ぜひご高覧下さい。
 
今後、島成園及びその周辺女流画家の作品は、近代絵画史上で再評価されていくのではないでしょうか。これからも成園のみならず、浪華の女流画家を少しずつ紹介させていただきます。
 
お楽しみに!