西洋絵画の道しるべ「アトリビュート」

記事を読む

皆さま、こんにちは。スタッフC・Kです。
 
今回は弊社が主に取り扱う日本画から離れ、西洋絵画についてお話します。
 
展覧会などで西洋画をご覧になられたことがある方も多いと思いますが、「この人物は誰だろう?」とか「これは何を表した絵だろう?」と思ったことがある方も非常に多いと思います。しかし、西洋の宗教(キリスト教など)や西洋での伝説などになじみが薄い我々日本人がすぐに理解するのは難しいでしょう。
 
しかし、西洋画にはある決まりが存在します。『アトリビュート』という言葉をご存じでしょうか?
 
『アトリビュート』とは・・・・・・
西洋美術において伝説上・歴史上の人物または神話上の神と関連付けられた持ち物、その物の持ち主を特定する役割を果たす物。持物(じぶつ)。(ウィキペディア より)
 
この説明だと少しわかりにくいかもしれませんね。では、日本画で例を挙げてみましょう。
 
*****
 
想像してみて下さい。皆さんの目の前に一人の少年の絵があります。
少年
これだとこの少年が誰かわかる方はいないと思います。
では、こちらだとどうでしょう?
桃太郎図

(奥谷一陽 作『桃太郎図』 弊社の過去販売作品です)

 
少年の周囲には「犬」「猿」「雉」が描かれています。よく見るとその服装には「桃」が描かれた服を着ています。もうお分かりですね?少年の名前は「桃太郎」です。日本昔話で一二を争うほど有名なヒーローですね。
 
ここで皆さんに考えていただきたいのは、何をもって彼が「桃太郎」であると判断したか?ということです。
 
おそらく「犬」、「猿」、「雉」、「桃」といった「桃太郎」の象徴たる品を確認したからだと思います。ここでいう「犬」、「猿」、「雉」、「桃」が「桃太郎」の『アトリビュート』に当たる物ということになります。
 
*****
 
西洋絵画には『アトリビュート』が存在します。これを知ることで西洋絵画を今よりずっと理解できると思います。
 
それでは、世界でも有名な人物「聖母マリア」の絵を見てみましょう。
受胎告知

(レオナルド・ダ・ヴィンチ作『受胎告知』ウィキペディアより)

 
上の絵画は、聖母マリアが天使ガブリエルにキリストを妊娠していることを告げられる『受胎告知』です。向かって右の女性が聖母マリア、左の羽の生えた人物が天使ガブリエルです。
 
聖母マリアの『アトリビュート』で有名なものは「白百合」、「赤い服と青いマント」、「幼子イエス」などです。
 
「赤い服の上から青いマント」を着た女性、その対面に跪く天使の手には「百合の花」があります。よって、右の女性は聖母マリアだとわかるというわけです。ちなみに「白百合」は乙女の純潔を、「赤い服」は神の慈愛を表すそうです。
 
さらに聖母マリアのそばにはまだ「イエス」はおらず、目の前には天使が跪いて何か語りかけていることからこの作品は『受胎告知』を表したものであると断定できるのです。
 
その他の「聖母マリア」の作品も見てみましょう。
大公の聖母

(ラファエロ・サンツィオ 作『大公の聖母』ウィキペディアより)

 
レオナルド・ダ・ヴィンチの『受胎告知』とは画風も場面も違いますが、赤い服に青いマント赤い服に青いマント、幼子(イエス)が描かれています。人物だけしか描かれていないにもかかわらず、この女性は「聖母マリア」だとわかります。
 
他にも
キリスト・・・・・羊、十字架、茨の冠など
洗礼者ヨハネ・・・・・ らくだの皮の衣、斧と切株、十字架
等があります。
 
このように『アトリビュート』を知ることで西洋画への理解が深まり、より楽しく作品をご覧いただけるようになると思われます。西洋画を鑑賞された方はその作品の『アトリビュート』が何だったのか、何を表していたのか考えてみるのも新たな楽しみとなることでしょう。
 
ここまでご覧いただきありがとうございました。

三十石船と京坂画家の交流(展覧会入門として)

記事を読む

こんにちは。大卍犬太(スタッフD)です。
 
先日、京都国立近代美術館で開催されている展覧会「サロン!雅と俗-京の大家と知られざる大坂画壇」を観に行ってきました (2022.03.23 – 05.08 開催。紹介ページ)。
メインビジュアル
江戸時代、京・大坂・江戸が日本の三都で経済・文化の中心地であったにも関わらず、後世の日本の美術史研究の中で京都と江戸の画壇については活発な議論がなされ、展覧会なども盛んに開催されてきたため一般の注目を集めてきた一方で、大坂についてはその陰に隠れ、文化的な空白の地帯とすらみなされてきた時代があったそうです。
 
その美術史観に異論を呈し、京都と大坂の画家たちの活発な交流があったことと、その他地域からも文化人が両地域に集まることで形成された「文化サロン」とも呼べるネットワークが形成されていたことに着目し、大英博物館も含めた国際的な協力の中で研究が行われた初めての大規模展覧会とのこと。
 
大阪を拠点にしております弊社でも、非常に取扱いの多い画家の作品がてんこもり。数・質共にとても充実しており、おススメです。
 
そこで、こちらの展覧会を観に行かれる前に読んでおくと、すこ~しだけ理解しやすくなるかも?という入門編として、取り上げられていた流派・画家などについて以下で概説してみます。
 
(会場では撮影は一切禁止でした。以下の絵画の画像は主に Google Arts & Culture より転載しています。説明の便宜上のもので、京都国立近代美術館で展示されている作品ではありません。)
 
*****
 
まず、今回の展覧会で取り上げられた画家たちが活躍した江戸中期頃以前までのお話。
土佐光信

(土佐光信・筆 こちら より)

 
平安時代の貴族文化の中で発展した大和絵の伝統を受け継ぐ土佐派と、その土佐派の画風に、室町時代に中国から輸入された禅宗文化の1つである水墨画(北宗画)の様式を取り入れ、完成された狩野派。
 
これらが日本の絵画史における二大流派と言え、後者は権力者の御用絵師としての地位を得ることで江戸時代を通じて画壇の覇権を握りました。
狩野永徳

(狩野永徳・筆 こちら より)

 
江戸前期に活躍した狩野探幽が亡くなると、幕府に好まれる画題に縛られることなどで画風がマンネリ化し、停滞していく狩野派。
 
一方で、町人文化が花開く時代、それまで描かれなかった庶民の生活を、狩野派を破門された久隅守景や英一蝶などが描きます。また風俗を描き版画として大量生産された浮世絵が庶民の娯楽に。京都では、町絵師だった俵屋宗達が雅な京文化の復権の一翼を担い、琳派の萌芽が見られました。
 
*****
 
そして、今回の展覧会の舞台である江戸中期頃以降。
 
当時流行し、後世に大きな影響を与えたジャンルとして、長崎派(南蘋派)の影響を受けた写生画と、江戸初期に渡来した黄檗僧の多くが余技として描いた南宗画・文人画があります。
 
鎖国体制下、唯一海外との交流のあった長崎で生まれた諸画派の総称を長崎派と呼びます。
 
八代将軍・徳川吉宗(在職:1716 – 1745)が中国古画を求めたものの本国で秘蔵されており入手が困難だったため、その代替として宮廷画家の沈南蘋が招聘され、1731-33年の2年弱の長崎滞在の間に、写生的で精緻な彩色花鳥画の技法を伝えました。そして沈南蘋の直弟子・熊代熊斐の門下であった鶴亭が京坂にその画風を伝えました。
沈南蘋・円山応挙

(左:沈南蘋・筆 こちら 右:円山応挙・筆 こちら)

 
その写生的技法は、近現代の京都画壇までその系統が続く円山派の祖・円山応挙や、伊藤若冲などの大家にも大きな影響を与えました。
 
南宗画(文人画)は、元々は中国において、職業画家の描いた北宗画(院体画)に対し、儒学の教養を備えた高級官僚(文人)が余技として制作したもので、日本でも町人としての本業の傍ら描かれました。
与謝蕪村

(与謝蕪村・筆 こちら より)

 
日本で描かれた文人画を区別して南画とも呼びます。大和郡山藩(奈良)の家老を務めた柳沢淇園などを先駆とし、京都の池大雅や大坂の与謝蕪村などが大成しました。
 
*****
 
この時代、日本全国の画家や文化人たちが憧れて訪ね交流を深めたのが、大坂・北堀江の木村蒹葭堂(けんかどう)の邸宅です(跡地である大阪市立中央図書館に記念碑が立っています)。
 
幼いころから本草学(薬用となる植物・動物・鉱物などを分類・研究する学問)に興味を持ち、石や貝類などありとあらゆる珍しいものを収集して、日本で初めての博物館を作ったとも言われています。海外にもその名が轟いていたとか。
木村蒹葭堂像

(木村蒹葭堂像 谷文晁・筆 Wikipedia より)

 
大岡春卜、柳沢淇園、池大雅、鶴亭に絵を学び、文人画家の一人としても有名。京坂のみならず、備中岡山の浦上玉堂、豊後(大分)の田能村竹田、江戸の谷文晁なども訪ね、親しくしていました。
 
ところで、ブログタイトルの「三十石船」って何?と思われましたでしょうか?
 
当時、画家たちも含め、人々やモノが京坂を行き来するのによく使われていたのが、淀川を往来していた船。米三十石積めるとのことで三十石船と呼ばれたそうです。大量のものを運ぶ場合は、人馬による陸上輸送よりも安価だったとか。
 
展覧会には、伊藤若冲が京都・伏見から大坂・天満橋まで淀川を下り描いた版画作品「乗興舟(じょうきょうしゅう)」(文化遺産オンラインの 紹介ページ)が展示されていました。
 
*****
 
展覧会入門は以上ですが、番外編として、この三十石船についてもう少し。
 
古伊万里ツウの方なら、三十石船と聞いてピンとくるのが・・・そう「くらわんか」です。
 
古伊万里の焼かれた佐賀県・有田に隣接する長崎県の波佐見で焼かれ、染付で素朴な文様、ボテッとした厚みのある日用雑器が、三十石船に乗っていた客に小舟(煮売船(にうりぶね)、通称くらわんか舟)で近づいて「飯くらわんか」などと汚い言葉で料理や酒を売る店で用いられたことから「くらわんか碗」や「くらわんか手」の器などと呼ばれます。
 
伊万里からやってきたということで、当時は伊万里焼と呼ばれ、また混同して扱われていたようです。
歌川広重

(こちら より)

 
歌川広重の京都の10か所の名所を描いた浮世絵シリーズ「京都名所之内」の「淀川」には、三十石船の乗客にくらわんか舟が近づいて料理を販売する場面が描かれています。
 
大阪・枚方市にある市立枚方宿鍵屋資料館は、当時三十石船に乗り降りする人たちの宿として使われた町屋をほぼそのまま残す貴重な建物で、発掘されたくらわんか碗などの資料が展示されています。
市立枚方宿鍵屋資料館
実は「くらわんか」という呼び名ですが、枚方にあった宿場を中心に上下一里(約4km)付近を通る船に販売していたことから枚方で名づけられたのだそう。これは知らなかった・・・。
 
長々と書いてしまいましたが、最後までお付き合い頂きまして、ありがとうございました。三十石船が往来し、京坂の画家が交流していた往時の空気を感じてみたい方は、ぜひ両館を訪ねてみて下さい。
 
大卍犬太(スタッフD)でした。
 
 
*****
 
 
◆弊社では、ヤフオク! ストア にて、江戸絵画を初めとする書画・屏風などを販売しております。
本店 ・ あやめ店 ・ もみじ店
 
◆『心斎橋 暮らしのこっとう』では、普段の食卓でお使い頂ける古伊万里の器を中心に販売中。
・店舗詳細はこちら
・公式SNSからのご注文・お取り置きも承ります。
インスタグラム ・ フェイスブック ・ ツイッター
 
(ご質問・お問い合わせは、代表電話 06-6251-1355 あるいは メール にて)

兵庫陶芸美術館で、古伊万里のお勉強をしたお話。

記事を読む

こんにちは。大卍犬太(スタッフD)です。
 
丹波焼の里、兵庫県丹波篠山市にある 兵庫陶芸美術館
「心斎橋 暮らしのこっとう」でも扱っております古伊万里をフィーチャーした展覧会を時折されており、私も注目しているスポットです。
 
8月いっぱいで終了してしまったのですが「赤木清士コレクション 古伊万里に魅せられて―江戸から明治へ―」という特別展に(感染症対策をきっちり取った上で)行ってまいりました。
赤木清士コレクション

(上記リンク先より)

 
イベントタイトルに冠されている赤木清士さん(1932-2019)は、兵庫県生まれで、工務店を起業。建設業に携わる傍ら、明治期を中心に、文明の黎明期を物語る科学技術資料の収集と、その一環として陶磁器の収集にも情熱を傾けられたのだそうです。そして、陶磁器488点が今年3月、当美術館に寄贈されることに。
 
今回、特に惹かれたのが、以前書いたブログ「担当、ついに(!)有田の地を踏む。」でも、言及しました 佐賀県立九州陶磁文化館 の館長、鈴田 由紀夫 さんによる記念講演会。NHKの人気番組「ブラタモリ」にも出演されたこともある有名人です。お国言葉の優しいイントネーションでのお話に、自然と夢の世界に連れて行かれそうに…というのは冗談で(笑)興味深い内容に、きっちりメモを取りながら耳を傾けました。
 
以下には、備忘録の意味も込めまして、本展覧会で勉強させて頂いたポイントを何点か挙げたいと思います。
 
***
 
日本において磁器が生産された地域と順番について
 
有田(伊万里)焼の肥前(佐賀県)が、江戸初期、日本最初の磁器生産が行われた土地であることは有名ですね。そして江戸後期になってその技術を身に着けた加藤民吉が、瀬戸(愛知県)での磁器生産に弾みを付けたことで、一般庶民に磁器の器が行きわたることになり、後世になって陶磁器が瀬戸物と呼ばれるようになった、というストーリーは知っていました。
 
でも実は、江戸時代を通して、磁器生産はもっと色々な場所で開始されていたそうです(短期間で途絶えた窯も)。
map

(講演会配布資料を参考に自作)

【17世紀~】
・有田(伊万里)焼(佐賀県)
・鍋島(鍋島様式の伊万里)焼(佐賀県)
・波佐見焼(長崎県)
・平戸(三川内)焼(長崎県)
・九谷焼(石川県)
・姫谷焼(広島県)
 
【18世紀~】
・志田焼(佐賀県)
・京焼(京都府)
・砥部焼(愛媛県)
 
【19世紀~】
・瀬戸焼(愛知県)
・美濃焼(岐阜県)
・三田・王地山焼(兵庫県)
 
***
 
鍋島焼について
 
鍋島焼は、佐賀県伊万里市南部の大川内山(おおかわちやま)にあった藩直営の窯で、将軍家や諸大名への献上品として焼かれていた焼き物。これは販売用ではなく「公務員」の陶工たちによって作られていた、という表現をされていました。
 
作られていたのはお皿が多く、その形状は 木盃形(もくはいがた)と呼ばれる深さのある円形のお皿に 櫛高台(くしこうだい)と呼ばれる櫛の歯ような縦縞模様(櫛歯文)が描かれた高台が付いた独特なもの。
 
時代の見方として、お皿に深さがあり大きいサイズのものほど新しい。高台の櫛の長さが長いものほど新しい、とのこと。
鍋島焼

(赤木清士コレクション目録 p.43)

志田焼について
 
志田焼は、有田町から南西に20kmほどの、嬉野市塩田町の志田地区で焼かれ、現在も生産が続いています。江戸時代は、伊万里焼として流通し、地元の一部の人のみ「志田焼」と呼んでいたそう。
 
江戸後期に多く作られた染付の大皿に特徴があり…
 
絵付の白抜きに 墨弾き の技法が用いられています。これは、まず素地に墨で文様を描き、その上から呉須で着色。施釉後本焼きすると、墨が焼け、墨で描かれた部分が白抜きの文様になるという技法です。
 
安価な陶石で素地を作り、その色を白く見せるために表面に化粧土を塗る 白化粧 と呼ばれる技法が用いられました。裏面の縁を見ると、液だれのような部分が見られ、化粧土雫跡などと呼ばれるそうです。
志田焼

(赤木清士コレクション目録 p.37)

 
***
 
文様による時代の変遷
 
【唐草文】
・江戸前期:菊や牡丹の「花」が中心でその周りに唐草
・江戸中期:「蔓」がより細かく繊細に
・江戸後期:花が消える
・幕末:蔓が簡略化、細切れの微塵唐草に(”こっぱみじん”に)
 
【蛸唐草文】
・江戸前期:蔓も葉も太く、輪郭線の中を塗る形
・江戸中期:線描になる
・江戸後期:より単調に”ぐるぐる”巻きに
 
【見込みに描かれる円形の松竹梅文】
・江戸中期・前半:幹が太く、中央から外側へしっかり描かれている
・江戸後期・幕末へ時代が新しくなるにつれて、略されあっさりとした描き方に
 
 
西洋人の文様
 
司馬江漢の西洋画が人気を博した1800年前後の南蛮趣味を反映し、古伊万里にも西洋人が描かれるように。ポルトガル人・スペイン人を南蛮人、オランダ人を紅毛人と呼びました。
紅毛人

(赤木清士コレクション目録 p.70)

 
***
 
展覧会・講演会の内容は、もちろんまだまだ盛りだくさんでしたが、今回はこの辺で。
 
ノートを綺麗に清書したようなブログになってしまいました汗 いくら勉強しても、沼のように奥深い古伊万里の世界。ぜひ皆さんも、担当と一緒にハマってみませんか?
 
大卍犬太でした。
 
 
* * * * * *
 
★『心斎橋 暮らしのこっとう』の商品の一部はこちらからご購入できます★
 
商品販売ページ
 
商品に関するお問い合わせは、お電話とメールにて受け付けております。お気軽にご連絡くださいませ。
 
 
★『心斎橋 暮らしのこっとう』 公式SNSはこちら★
インスタグラム  フェイスブック  ツイッター

5月の出来事・・・【日露戦争勝利】東郷平八郎 「勝って兜の緒を締めよ」

記事を読む

こんにちわ。バイヤーA です。
 
今から116年前の明治時代、日本は日露戦争に突入しており、1905年5月27日、日本海海戦にて連合艦隊を率いた東郷平八郎が、当時世界屈指の戦力を誇ったロシア帝国海軍バルチック艦隊を破って世界の注目を集め、アドミラル・トーゴー(Admiral Togo 、東郷提督)としてその名を広く知られることとなりました。
 
今回は、そんな江戸から昭和の時代を駆け抜けた元勲 東郷平八郎 をご紹介させていただきます。
 
先ずは写真…
東郷平八郎

(アメーバブログの記事より)

かなりのイケメンですねー。
 
東郷平八郎を検索すると熟年期の軍服を着ている写真が多く掲載されていますが、今回は敢えて若かりしきイケメン時代の写真を転用させていただきました。
 
【生涯】
 
江戸時代、弘化4年の1848年に鹿児島に生まれ、14歳で薩英戦争で初陣。
19歳の時には戊辰戦争で軍艦「春日丸」に乗り込み参加。
若い時より聡明、語学も堪能だったようで、23歳の時にイギリスに留学。
7年間の留学の後、帰国し海軍で経験を積み、46歳の時に戦艦「浪速」の艦長になり日清戦争で活躍。
56歳の1904年、日露戦争が勃発。
戦艦「三笠」に乗り込み、連合艦隊司令長官として翌年日本の勝利に多大なる貢献。
アジアの小さな国だった日本が大国ロシアの艦隊に大勝利したことは世界列強が驚いたと同時に、
日本が列強国の仲間入りを果たした大きな出来事だった。
昭和9年(1934年)5月30日、多くの国民から尊敬、慕われた元帥も満86歳で薨去。
 
 
【逸話】
 
日露戦争後、一躍時の人となった東郷元帥は、なんと 日本人で初めて あの有名な TIME誌の表紙を飾った 人物らしいです。
 
アメリカの政治家や実業家、ジャーナリストなどといった著名人達は、【TIME】の表紙を飾ることができるかどうかが格付けの目安になったとも言われ、日本人初とは流石ですね〜。
 
TIME表紙

(楽天ブログの記事より)

 
更にもう一つ面白い話として、なんと、日本人のおふくろの味定番料理の 肉じゃがを生み出した のが、東郷平八郎だという説があります。
 
彼がイギリスに留学していた頃。現地で出合ったビーフシチューの味を忘れることができず、艦上食のメニューにビーフシチューを加えるよう依頼。しかし、当時はビーフシチューの材料であるワインやソース、バターの入手が困難で、使える調味料と言えば、醤油や砂糖など日本の物だけ。結局、失敗作の様に出来上がったのが、今で言う「肉じゃが」だったといいます。
 
肉じゃが

(wikipediaより)

 
何という誕生秘話!今でも美味しくいただいてます。有難う東郷元帥!
 
 
【勝って兜の緒を締めよ】
 
現代人の多くは東郷平八郎の名は知らなくても、この言葉は聞いた事があるのでは無いでしょうか。
 
兜
 
連合艦隊の解散式で、東郷は「勝って兜の緒を締めよ」と語って、その演説を締めくくりました。
この言葉の通り、東郷には勝者の驕りはまるで見られない。
 
戦後さらに寡黙な人になった東郷は、新聞などの取材に一切応じなかったといいます。彼は、元来が戦争を嫌った人間であったそうです。たとえ防衛という意味があろうとも、生身の人間が殺し合うのが戦争です。勝利したからといって、自慢すべきものとは思えなかったからでしょう。
 
晩年の東郷の生活は、国家の危機を救った英雄とはおよそかけ離れたものであり、東郷大明神などと称賛されることも極端に嫌ったそうです。清貧な生活を貫き、いつも周囲に思いやりを寄せたといいます。
 
常日頃、彼が語っていた言葉で「人間に一番大切なのは真面目ということである。少しばかりの才気など、何の役にも立たないものだ」というのがあります。
 
国家に忠節を尽くし、真面目にそして誠実に生きたその生涯は、素晴らしいですね。
第二次世界大戦以前の日本において、最も尊敬された軍人の一人であったと思います。
 
東郷平八郎02

(wikipediaより)

 
東郷平八郎は「書」に関しても非常に達筆で、軍人らしい気概のある書を多く残しています。
弊社でも数点取り扱いありますのでご覧ください。
 
※ 以下、青字をクリックしますと、弊社のヤフオクアカウントが開きます。
東郷平八郎と乃木希典の書、双幅
東郷平八郎の書、七言絶句
東郷平八郎の扁額
東郷平八郎の超大幅
東郷平八郎の一行書
東郷平八郎の書、五言絶句
東郷平八郎の二行書
(2021年5月24日現在で在庫ございますが、今後売約となり、リンク切れとなる場合がございます。予めご了承下さい。)

花のように美しく…

記事を読む

こんにちは!担当のNです。
 
春のポカポカ陽気で、お出かけには持ってこいの季節ですが、新型コロナの影響で中々外には出づらい日々ですね。
 
今年はオリンピックイヤーということで、各種スポーツに注目が集まっています。という私は野球観戦にハマっており、関西人ということもあり、某関西球団のTV中継に熱狂しております!!若い選手たちが躍動し、切磋琢磨しているところ見ると、胸が熱くなり活力をもらえる気がします!
 
さて、スポーツ選手というと、よくサインしているところを見かけますが「これなんて書いてんの?」と思うことがよくあります。
 
サインの歴史を辿っていくと、古くは「花押(かおう)」と呼ばれる、草書体の署名(サイン)が使われており 花のように美しく署名する という意味があります。古来より他者と区別するための符号として使われていました。
 
例えば有名なところでいうと…
花押01
これは、昨年の大河ドラマにも登場した 織田信長 の花押です。
至治の世にしか現れない生物と信じられていた麒麟の「麟」を、花押化したものと伝えられています。(「信長」の字を表しているなど、諸説あり、解釈も様々なようですね!)
 
 
続きまして…
花押02
こちらは、大河ドラマの主役でした 明智光秀 の花押です。
自身の名前である「光」を図案化したものと考えられています。花押をなぞっていくと光っぽくなり、わかりやすいですね!
 
 
花押03
複数の花押をつかうこの方も戦国大名で、「独眼竜」の異名をもつ 伊達政宗
鳥の鶺鴒(せきれい)の姿をモチーフとしています。
せきれい
小さいながらも凛としていますね。花押もどことなく似ているのでしょうか!?
 
文書ひとつで自分の身が危ぶまれる時代では、内容次第では命取りになることもあり、伊達政宗は花押を用いる際に、相手や内容によって何種類も花押を使い分けていたようですね。
 
 
花押04
室町時代の画僧 雪舟 の花押です。
中心には、教理や仏・菩薩を褒め称えた言葉である「偈」があります。
 
弊社の取り扱う作品にも、度々花押の書かれたものが出てきます。作品自体を愛でるのは勿論ですが、花押の由来なども調べて鑑賞すると、さらに作品を楽しむことができるのではないのでしょうか。
 
私も自分のオリジナルサイン考えてみようかな。