こっとううんちく【古伊万里にまで十字架って、ラブリ~&ミステリー】

これを知ったら骨董探しがより楽しくなる!
スタッフによる骨董うんちく話★
 
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こっとう☆うんちく…その31
 
こっとううんちく
 
【古伊万里にまで十字架って、ラブリ~&ミステリー】
 
キリシタン
こんなとこにも
隠れてたん?

 
 
この繊細な線描で牡丹と蝶が描かれた器の、見込みの真ん中にある文様が「十字架です」と言うと、信じられますでしょうか?
ポルトガル語でクルスと呼んだことから、クルス文と呼ばれ「久留子」や「来留子」と当て字がされます
キリスト教が日本に伝来した後に改宗した、いわゆるキリシタン大名たちの家紋にも、様々なデザインのクルス文が採用されました。
 
でも古伊万里が作られた江戸時代にはキリスト教は禁教とされ、信徒たちは弾圧されていたはずです。ならば、この器はいわゆる「隠れキリシタン」によって作られたのでしょうか…?
とても興味深いところだと思うのですが、これについて深掘りした文献や資料は現在のところないようなのです。
そこで今回も、見つけうる情報の範囲内で、イマジネーションの翼を広げてみましょう!
 
まず「古伊万里の制作者に、キリスト教徒がいたのか?」です。
 
有田の地で伊万里焼の焼成が始まるのは1610年代のことですが、それ以前の1606年に佐賀(鍋島)藩の藩主、鍋島勝茂の元に初めて宣教師が訪れ、1608年には佐賀城下に教会を建てて布教を開始したというのが、資料的に裏付けの取れる事実とされています。(それ以前にも、実は他の宣教師が佐賀藩領内で布教活動を行っており、1601年の時点で200人のキリスト教信者がいたという説もあるようです。)
しかしながらその後、1612年に幕府が禁教令を発布、翌年には全国にその影響が及びます。そして、佐賀にいた宣教師達も去ることとなりました。
 
ここでもう一点挙げておきたいのは、古伊万里の窯について。
磁器の原料が発見された有田の泉山磁石場と、最初期のものとされる5箇所の窯跡が国の史跡「肥前磁器窯跡」に指定されているのですが、その中の1つ、現在の有田中心地から南東に10数km離れた嬉野市にある、不動山窯跡。こちらは1680年前後30年くらいの時期に稼動していたとされていますが、古文書などの記録はなく、誰がここで制作をしていたなどの詳細は一切不明。
ただ、鍋島藩の隠し窯であったとか、隠れキリシタンとも関係があった、というような説もあるのだそう。好奇心がくすぐられますね。
 
次に「古伊万里の発注者(顧客)に、キリスト教徒がいたのか?」です。
 
制作者の中に隠れキリシタンがいた?と考える一方で、当然このデザインで発注をかけるお客さんがいないと商売は成り立ちません。
17世紀中頃にはヨーロッパを中心に海外へと輸出されていた古伊万里ですが、17世紀末、中国磁器の輸出再開によって市場を奪われると、徐々に国内向け生産にシフトすることになります。18世紀中頃には江戸で外食産業が盛んになり、町民などの庶民層にも古伊万里の磁器の使用が広がっていきました。
 
隠れキリシタンというと、長崎や周辺の島々に限られるようなイメージがあるかと思いますが、キリスト教の布教は日本全国に及び、17世紀初めには30万人を超える信者(当時の日本人の全人口の2%程度)がいたそうで、現在「隠れキリシタンの里」とされる場所も、全国様々なところに点在しています。
例えば、教科書でもお馴染みの重要文化財「聖フランシスコ・ザビエル像」が、キリシタン大名・高山右近の旧領であった大阪府茨木市北部の千提寺地区の旧家で発見されて、昨年2020年が100周年だったとニュースにもなりました(現在は、神戸市立博物館が所蔵)。
 
こういった地域の人々が、十字架入りの古伊万里を発注・購入したのでしょうか?
 
今回のうんちくは「クルス文の古伊万里の器は、隠れキリシタンによって作られたのか」について、遠からずも(残念ながら)近からずといった内容でお届けしました。
何かヒントとなる資料等、ご存知の方がおられましたら是非ご一報下さい。
また「それ十字架ちゃうで、全然関係ない模様やで」とのちゃぶ台返しも大歓迎(?)です!
 
 
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