こっとううんちく【その男、孝行者につき】

記事を読む

こっとううんちく

これを知ったら骨董探しがより楽しくなる!
スタッフによる骨董うんちく話★
 
* * * * * *
 
こっとう☆うんちく…その18
 
こっとううんちく
 
【その男、孝行者につき】
 
たけのこの
絵に隠された
エエ話

 
 
竹は大地に根を張り、四季を通して青々としている姿が強い生命力を表し、松・梅と並んで縁起物とされていますね。
では、たけのこがなぜ古伊万里の器に描かれているのか、ご存知でしょうか?
それには、古くから伝わる エエ話 が隠されているのです。
 
日本でも、南北朝時代に禅僧によって中国からもたらされ、室町中期以降御伽草子として普及、江戸時代には寺子屋の教材として採用された「二十四孝」というお話。
これは元の時代、郭居敬(かくきょけい)という人が 古代中国における親孝行の特に優れた人物、24人の故事 を集めて編纂した「全相二十四孝詩選」が元となっています。
 
この24人の中の一人、中国三国時代の呉の政治家だった 孟宗(もうそう)の孝行話が、たけのこに関係しています。
幼い時に父を亡くし、年老いた母親と二人暮らしだった孟宗。
ある時、病に伏した母親がたけのこを食べたいと言います。ところが季節は冬。たけのこが生えているはずはありません。孟宗は、母親の願いを叶えたい一心で雪の中を歩き回り、天に祈りを捧げます。
すると、不思議なことにある場所の雪が融け、たけのこが生えてきた のです。孟宗がそれを掘って持ち帰り母親に与えると、たちまち病が癒えて、その後長生きした というお話です。
 
この逸話から、古伊万里に描かれたたけのこ掘りの図は「雪中筍掘図」などと呼ばれます。
雪が積もった冬の風景とわかる場合や、雪輪文でそれを表している場合などがあります。
 
また、写真右の器のように、たけのことクワのみ描かれ、主役の孟宗が不在ながらもこのストーリーを隠喩しているものを「留守文様」といい、着物や刀装具の鍔(つば)などにも多用された表現です。
 
なんとも粋で、深イイお話 じゃあございませんか。
 
 
* * * * * *
 
商品に関するお問い合わせは、電話・メール・公式SNSのダイレクトメッセージにて受け付けております。お気軽にご連絡くださいませ。
 
★『心斎橋 暮らしのこっとう』 公式SNSはこちら★
インスタグラム  フェイスブック  ツイッター
 
★『心斎橋 暮らしのこっとう』の商品の一部はこちらからご購入できます★
 
商品販売ページ「心斎橋 暮らしのこっとう」

こっとううんちく【エピソードで楽しむ骨董】

記事を読む

こっとううんちく

これを知ったら骨董探しがより楽しくなる!
スタッフによる骨董うんちく話♪
 
* * * * * *
 
こっとう☆うんちく…その17
 
こっとううんちく
 
【エピソードで楽しむ骨董】
 
ユーモラス
絵の裏にある
含蓄よ・・・
(汗)
 
 
古伊万里の器に描かれた絵には、直感でかわいいなと思うものがたくさんありますが、作られた 江戸や明治期の文化・背景がわかると、一段と理解が深まる ものです。
 
この蓋付碗に描かれた「雨模様の中、雷が鳴り、傘を差して逃げ惑う人々」ですが、実は「めっずらし!おもろっ!」だけで終わらないストーリーが隠されているのです。
 
これは、歌舞伎の仮名手本忠臣蔵・五段目 の一場面。
 
早野勘平(はやのかんぺい)は、山城国山崎にある 妻のお軽(かる)の実家に身を寄せ、猟師をしていました。
ある日夕立に会い、商売道具の銃の火縄を湿らせて困っていたところ、思いがけず 元同僚の千崎弥五郎(せんざきやごろう)が通りががります。
二人は、高師直(こうのもろなお)に切り付けた罪で切腹を命じられた塩冶判官(えんやはんがん)の家臣同士。主君である判官の仇討ちの計画を聞き、勘平はその資金を調達することを約束して、弥五郎と別れます。
そのことを知った妻のお軽は、両親に相談。勘平には内密に、祇園で身売りをすることを決意するのです。
 
お軽の父・与市兵衛(よいちべえ)は、娘を売る証文を取り交わして前金の50両を手に、雨の降る夜道、帰路を急ぎます。
そこに現れたのが 盗賊の斧定九郎(おのさだくろう)。与市兵衛を惨殺し、50両を奪います。ほくそ笑む定九郎。
しかしそれでは終わらず、彼の背後から猪が飛び出し、すんでのところでやり過ごした定九郎の身体を、弾丸が貫きます。
猪を狙っていたのは勘平で、その流れ弾が定九郎に命中してしまった のです。
大変なことをしてしまったと定九郎を抱き起したところ、勘平の求めていた50両があり、期せずして手に入れることができたのです。
 
この 後半の場面が、蓋付碗に描かれています。
3人は、与市兵衛、定九郎、勘平なのでしょうか。3人の立ち位置が少し違う感じもしますが・・・。
 
ところで、この3人の中から1人フィーチャーするとしたら、誰にしますか?
実は、かつて演じた役者の功績で同じような図柄で1人の場合は、盗賊の定九郎 なのだそうです。
江戸時代の歌舞伎役者、初代・中村仲蔵(1736-1790)が初めて定九郎を演じたのが明和3年(1766年)。その妖艶で美しい演技は、それまでのこの悪役のイメージをがらりと変え、後世にも伝わる定九郎像となりました。
古伊万里に描かれるようになったのも、この初演の年以降だと言えるそうです。
 
長くなってしまいました。(汗)を(泣)にしてもよかったくらい、ひとつの器の絵に込められた深い、深いストーリー・・・。
これからも解釈と解説、頑張ります(笑)
 
 
* * * * * *
 
商品に関するお問い合わせは、電話・メール・公式SNSのダイレクトメッセージにて受け付けております。お気軽にご連絡くださいませ。
 
★『心斎橋 暮らしのこっとう』 公式SNSはこちら★
インスタグラム  フェイスブック  ツイッター
 
★『心斎橋 暮らしのこっとう』の商品の一部はこちらからご購入できます★
 
商品販売ページ「心斎橋 暮らしのこっとう」

こっとううんちく【よろけ文様】

記事を読む

こっとううんちく

これを知ったら骨董探しがより楽しくなる!
スタッフによる骨董うんちく話★
 
* * * * * *
 
こっとう☆うんちく…その16
 
こっとううんちく
 
【よろけ文様】
 
ぐにゃぐにゃに
ついた呼び名が
あったとは!

 
 
この一見何なのか分からない幾何学文様。
何かの植物なのか?クラゲなのか?はたまたアメーバなのか・・・??
 
これは、よろけ文様 といいます。よろけ縞(じま)文とも。
 
初めにこのお皿の柄を見てしまうとイメージしにくいのですが、元は着物によく用いられる模様で、波打つようによろけた線(波形曲線)が並んだ縦縞模様 のことです。横線は入っていません。
 
これと似た縦縞模様に「立涌(たちわき・たてわく)文」という、2本の曲線の中央がふくれ、両端がすぼまった線が並んだものがあります。
これは、元は水蒸気が立ち上がっている様子を表したもの。
隋などから伝えられた文様を和様化、奈良時代から公家階級の服装に用いられた、有職文様の1つです。
 
突然ですが、『そもそも何で「縞」っていうのか、わかるぅ〜?』
・・・ぼーっとしてると、誰かに叱られそうな質問ですが(笑)
 
「縞」という呼び方にも由来があります。
中世までの日本では 横方向の縞を「段」、縦方向の縞を「筋」と呼んでいました。
室町時代以降、舶来の優れた織物に縞模様のものが多く、南方の島を経由してもたらされたことから、島物の模様 → 縞(しま)模様 と呼ぶようになったそうです。
 
「変わった模様だね」と素通りしてしまいそうなところですが、深堀りすると、人に語れるウンチクが隠されているものですね。
 
 
* * * * * *
 
商品に関するお問い合わせは、電話・メール・公式SNSのダイレクトメッセージにて受け付けております。お気軽にご連絡くださいませ。
 
★『心斎橋 暮らしのこっとう』 公式SNSはこちら★
インスタグラム  フェイスブック  ツイッター
 
★『心斎橋 暮らしのこっとう』の商品の一部はこちらからご購入できます★
 
商品販売ページ「心斎橋 暮らしのこっとう」

こっとううんちく【大明成化年製】

記事を読む

こっとううんちく【大明成化年製】

これを知ったら骨董探しがより楽しくなる!
スタッフによる骨董うんちく話★
 
* * * * * *
 
こっとう☆うんちく…その15
 
こっとううんちく
 
【大明成化年製】
 
コピー品
いい感じに盛る
魔法のことば

 
 
古伊万里の器を裏返し、この文字が書かれているのを見かけられたことのある方は多いと思います。
文字通りの意味は「偉大なる明の成化帝の時代に作られたもの」ということ。中国の明朝の第9代皇帝、成化帝の在位は1464~1487年で、日本で言えば室町時代にあたります。
なので、めちゃめちゃ古い時代のものやん!っと興奮しちゃうあなたは、あせりすぎです(笑)
 
日本初の磁器である伊万里焼が完成したのは、江戸初期。
これは朝鮮人陶工によって作られたのが定説ですが、この元となる、世界で初めて染付磁器を生み出したのは中国です。白地に青の絵付け、ということで「青花」と呼ばれました。
「青花」は、元の時代の後期(1351年)には景徳鎮窯で確立していたとされ、その後、明の成化年間に作られたものが品質的に最高のものとされました。
 
「偉大なる明の~」という言葉は、この時代の青花磁器への憧れとして、明末期の中国や、日本で焼かれるようになってからも、器に書かれるようになったというわけです。
 
バリエーションとして、「大明年製」や「成化年製」とのみ書かれたものもあります。
また、「大」が「太」となっているものがありますが、これは職人が間違えたという説や「大」よりもさらに敬意を込めたという説があるようです。
そして「成化」ではない時代が書かれたもの(写真左は「萬(万)暦」ですね)もあります。
 
「コピー品」と言ってしまうと身も蓋もないですが、実感としてこれが書かれた器には、手が込んでいたりで、いいものが多い気がします。
本家に近づきたいというプロ意識の高い職人がよく用いていたのでは?と考えるのは、持ち上げすぎでしょうか…?
 
 
* * * * * *
 
商品に関するお問い合わせは、電話・メール・公式SNSのダイレクトメッセージにて受け付けております。お気軽にご連絡くださいませ。
 
★『心斎橋 暮らしのこっとう』 公式SNSはこちら★
インスタグラム  フェイスブック  ツイッター
 
★『心斎橋 暮らしのこっとう』の商品の一部はこちらからご購入できます★
 
商品販売ページ「心斎橋 暮らしのこっとう」

こっとううんちく【現代の食卓に馴染む古伊万里】

記事を読む

心斎橋 暮らしのこっとう

これを知ったら骨董探しがより楽しくなる!
スタッフによる骨董うんちく話★
 
* * * * * *
 
こっとう☆うんちく…番外編
 
こっとううんちく
 
【現代の食卓に馴染む古伊万里】
 
西欧の
王様好みの
IMARI焼

 
#Repost @yumi.ariga さん (インスタグラム
こちらの写真の気品あふれるコーディネートは、弊社の大切なお客様であり、テーブルコーディネーターの @yumi.ariga さんの作品です。
「和」の印象が強い古伊万里の食器ですが、このように東西の文化が交差する現代の食卓にも馴染みます。
 
それもそのはず、鎖国下の日本から全世界に輸出され、熱烈に愛されていた時代がありました。
17世紀半ば、中国王朝が明から清に変わる動乱期に中国磁器の海外輸出が断絶すると、それに代わるものとして、オランダの東インド会社が目をつけたのが日本の伊万里焼
王侯貴族の間では、大型の壺や瓶を室内装飾とするのがステータスシンボルとなりました。
 
さらには、特に熱狂的だった現在のドイツの州ともなっているザクセン王国のアウグスト強王の指揮によって、伊万里焼の登場から遅れること約100年後、ヨーロッパで初めての磁器マイセンが生まれることとなったのです。
 
日本人としては誇らしいエピソードではないでしょうか?
 
 
* * * * * *
 
商品に関するお問い合わせは、電話・メール・公式SNSのダイレクトメッセージにて受け付けております。お気軽にご連絡くださいませ。
 
★『心斎橋 暮らしのこっとう』 公式SNSはこちら★
インスタグラム  フェイスブック  ツイッター
 
★『心斎橋 暮らしのこっとう』の商品の一部はこちらからご購入できます★
 
商品販売ページ「心斎橋 暮らしのこっとう」